てぃーだブログ › 新しい記憶

【PR】

  

Posted by TI-DA at

2014年09月05日

新たにOPEN

このページは容量がいっぱいになりましたので新しいブログアドレスをオープンしました。
 また沖縄の旅を見に来てくださいね。 
     ↓ ここをクリック
http://newmemory2.ti-da.net/
  


Posted by 夏が好き at 22:13Comments(0)

2014年09月02日

2014年沖縄の旅(石垣島 その11)No.18

ヒルギ群落から79号線を少し南下した所に「オーシャンフロントカフェ あんちゅら」という店があり海が綺麗そうで、のども渇いたので
店に入ってかき氷を頼むことにした。
一息ついてこの店の裏側の海岸に下りてみた。





ここから米原海岸に向かう途中に綺麗な海岸があるようなのでそこの行ってみます。
砂浜がとても静かで波の跡が綺麗でした。



この海岸を右の方に歩くと急に広くなった場所がありました。



この周囲の海岸はかなり浸食されていますね。
小さな洞窟があちこちにあります。




近くの方が気持ちの悪い変な生き物がいると言って見せてくれました。
これはウミウシの種類なんでしょうか。
しかし、蛍光色の赤いパンツが眩しかった。



この赤いパンツの方が、青洞門がすぐそばにあるというので連れて行ってくれました。
水が緑っぽく時間帯によってはもっと綺麗になるようです。




青い熱帯魚もたくさん居ました。



そろそろ今日の民宿に向かいます。
途中、川平湾を見通せる場所があったので写真をパチリ。



民宿にとりあえず荷物を置いて、川平湾をぶらぶら散歩しました。
水が綺麗ですね。
かなり多くの観光客が居ました。







民宿の前にゆったり、のんびりしている猫ちゃん家族が居ました。


<続く>  


Posted by 夏が好き at 06:48Comments(8)

2014年08月30日

2014年沖縄の旅(石垣島 その10)No.17

7月11日今日は野底岳に登ってみます。
ここは登山する方法が2つあります。
一つは西側から登りますがこれは一番下から登る方法でゆっくり登れば約1時間近くかかります。
もう一つの方法は東側に抜ける大きな道路があって、その途中まで車で行きそこから登れば15分くらいで簡単に登れます。
折角登るので一番下から登りました。
こんな入り口から登ります。


途中は道が分かりにくい場所や、赤土でかなり滑りやすい所があります。



途中には赤い布の目印やロープが張ってありました。
滑りやすい場所にはこのロープは便利ですね。
随分以前から張られていたようで木の成長に伴い食い込んでいます。



やっと頂上が見えてきました。
ゆっくり歩いたので約1時間かかりました。
途中きつかったけど、登り終えるととても気持ちが良い。


頂上のこの大きな岩の下に看板があります。
ここには野底岳に関する伝説がこのように書かれています。

伝説 ヌスクマーペー
昔、琉球王国時代、役人が国王の命として人々を一人残さず強制移住させる「道切りの法」という制度があった。
当時、黒島 宮里村のカニムイとマーペーは恋仲であったが、道切りの法により享保七年(1732年)に
建立された新村、野底村へマーペーは強制移住させられた。
毎日、カニムイの事を想い、泣きもだえていたマーペーは近くの高い山に登って、ふる里を見ようとしていたが
オモト山が立ちはだかり何も見えなかった。
幾日もなげき悲しんだマーペーは頂上で祈る姿で石となった。
その後、人々はマーペーをあわれみ、この山を野底マーペーと呼ぶようになった。
八重山歴史家 牧野清 山水会

とありました。


「沖縄の昔話」から物語的に書かれたモノがあったので長くなりますが載せますね。
時間のある方はゆっくり読んでみてください。
-----------------------------------------------------
「沖縄県立総合教育センター
沖縄の昔話【子ども】から

むかし、八重山(やえやま)の石垣島(いしがきじま)と西表島(いりおもてじま)の間にある黒島という小さな島に、
マーペーという美しいむすめと、カニムイというたくましい若者がいたって。

マーペーとカニムイは小さいころからの仲良し。
家も、中道と呼ばれる道をはさんだ向かいにあるものだから、ずっと、それこそ朝から晩までいっしょになって遊んだり
ケンカしたりして過ごしていたって。

村の人も、マーペーとカニムイの仲の良さを知っていて、あまりに似合いの二人だから、「いつになったらけっこんするのかなぁ」
と言っていたんだって。

そんなある日。
島に大勢の役人がやって来て、村中の人みんなに集まるよう命令して、こう言った。
「王様の命令として、これまでおさめていた米やさとうをもっと多く納めるように。
それには今の土地では足りないので、新しく米やキビを作ることのできる土地を開くことになった。
ついては、この島から石垣島へ人を移すことになった。
村の中道からこちらへ住んでいる者は、全員明日の朝、石垣島へ行くことを申しつける」
いっしゅんシーンとなった村人だけど、そのうちに、「大変なことだ。ぜったいに行かんぞ」と、
さけぶ声が多くなった。

「えーい、だまれ、だまらんか。もんくをいうやつは、ここで今すぐ切ってやるぞ」
刀を持ってみんなの前に立ちはだかる役人に、だれも声を出す者はいない。

そこへ出てきたのがカニムイ。
「お願いです。こちらには、私とけっこんすると約束したマーペーがいます。
そのむすめだけは連れて行かないで下さい。お願いです」
でも、役人は刀を持ったまま言うことを聞いてはくれない。

しかたなくあきらめマーペーとカニムイは、たがいに見つめあったまま、だまって別れるしかなかったって。
中道をへだてていただけで、はなればなれになったマーペーとカニムイだったわけ。
石垣島へ連れて行かれたマーペーたちは、野底(のそこ)という村で、うっそうと木がしげる森をそれこそ朝から晩まで働いた。

こうして、広い海とけわしい野底岳(のそこだけ)にはさまれた村にも、少しずつ作物が実るようになった。
だけど、ある夏のこと。
村をマラリアというおそろしい病気がおそってきた。

苦しむみんなのために、村では、お祭りをして、おそろしいマラリアをふりはらい、村を明るくしようとしたわけ。
マーペーもマラリアにかかってしまって、ねこんでしまった。
マラリアで苦しみながら、マーペーが思うのはカニムイのことばかり。

祭りの日、一人家を出たマーペーは、どうしてもカニムイの住む黒島が見たくて、苦しみながらも野底岳に登っていった。
だけど、やっとのおもいで、ちょう上にたどりついたマーペーが見たものは、石垣島で一番高いおもと岳だった。
どんなに目をこらしてみても、カニムイの住む黒島は見えない。
とうとうせいも根もつきはてたマーペーは、悲しみのあまり、そのまま石になってしまった。

今でも野底岳のちょう上には、石になったマーペーが、いとしいカニムイの住む黒島の方を見てすわっているわけ。
悲しい悲しい石垣島に伝わるお話さ。」
-----------------------------------------------------

伝説とはいえ、可愛そうな話ですね。
当時はこれと似たようなことが多々あったのだと思います。
役人の都合だけで今でも同じようなことが形を変えて起こっていますね。

この頂上から見る景色はとても綺麗でした。
綺麗だけに、マーぺーのガッカリした深い悲しみを思うとせつなくなってきますね。






この前方が黒島方面ですが於茂登岳(おもと岳)が目の前に立ちはだかっていて確かに見えません。


悲しみのあまりこのように石になってしまいました。


誰も居なかったので、ここでマーペーと一緒にセルフタイマーで一枚パチリ。


野底岳を下山し、県道79号線を南下します。
2Km位進むと吹通川があり、ここはヒルギ群落があります。
マングローブが生い茂っているところです。




ここには様々な生き物が居ます。
確認できたのはミナミトビハゼがぴょこぴょこ動き回っていました。


またあちこちにコメツブガニが作る砂団子がいっぱいありました。
コメツブガニは砂中の有機物やプランクトンが食べ物で砂を鋏脚でつまんで口に入れ、砂粒の中から餌を濾過摂食します。
残った砂は口の上部に丸く固め、鋏脚で切り取って足元に捨てるのでこんな団子畑になってしまいます。
しかし見事ですね。残念ながらコメツブガニを見つけられませんでした。



<続く>  


Posted by 夏が好き at 21:27Comments(4)

2014年08月29日

2014年沖縄の旅(石垣島 その9)No.16

伊原間牧場や久宇良牧場の周囲は海岸でとても綺麗です。






この牧場のすぐ側が久宇良岳という小高い山です。
登ってみましょう。
ここはパラグライダーのテイクオフポイントになっている場所です。
時間的に午後4時半頃だったので行ったときは誰も居ませんでした。
海が碧く緑が綺麗で素晴らしいビューポイントです。




先ほどの牛が居た場所はこの真下あたりです。
遠くにかすかに牛が見えます。
黒い点が牛です。


全体の風景はこんな感じです。
ここからパラグライダーをするんですね。


民宿で夕食を済ませてサガリバナを見に行くことにしました。
昼間見たときは全く咲いておらず、つぼみ状態でしたが、暗くなってすぐに見に行くともう咲いていました。
暗くなれば咲く面白い花ですよね。
これは同じ場所です。








明日は野底岳に登ります。

<続く>  


Posted by 夏が好き at 21:46Comments(2)

2014年08月28日

2014年沖縄の旅(石垣島 その8)No.15

平久保崎の少し手前から綺麗な海が見えています。



ここが最北端の平久保崎入り口です。
この100mくらい先が先端です。


海の色がとても綺麗です。








最後に記念に一枚パチリ。


この石垣島最北端の集落に行ってみます。
この平野がバスの終点でここから先は道がありません。
ここだけを見るとかなり幅の広い道路なんですよ。
時刻表を見ると一日に3本のバスでした。

この集落の方に聞いてみると、大きな舗装された道はここまでだそうですが、東側も行けないことはないそうです。
道はあるが農業道路なので道が狭くガタガタで凸凹で通行するのはかなり大変だそうです。
当初は通ってみる計画を立てていましたが、地元の方の話を聞いてかなり時間がかかりそうなので止めました。


県道206号線を戻って明石集落に今日宿泊の民宿「月桃の宿あかいし」があるのでまずは行ってみます。



部屋はこんな感じです。
とても静かで落ち着いた良い感じの民宿です。
食事も美味しかったですよ。


先ほどの最北端から東側の農道の道に行きませんでしたが、その出口(入り口)がこの民宿の近くにありました。
そこから農道に入ってみると足の細長い鳥を見つけました。
シロハラクイナです。
背中側は黒色で腹側が白いので「シロハラ」の名が付いたようですね。


この近辺は伊原間牧場や久宇良牧場があって周囲には沢山の牛が、牧草を食べていました。
「も~~~おめーはどこのものだ」と言ってこちらを見ていました。ホント?



<続く>  


Posted by 夏が好き at 14:04Comments(2)

2014年08月27日

2014年沖縄の旅(石垣島 その7)No.14

7月7日から9日までの3日間は台風のために遠くへの移動を止めて石垣島に待機していました。
昨日9日は天気も少し良くなったので石垣市内をゆっくり散策し色々な物を見て回りました。
今日7月10日から3日間ほど、また当初のスケジュール通り石垣島全体を廻ります。

市内から石垣島を左回りに進みます。
国道390号線を北上し白保集落になる白保の海、サコダ浜ビーチで目の前に白保船付場という船溝(ワタンジを越えて船が航行しやすいように
掘られた溝)を掘って、サンゴの岩で囲んでいるという珍しいものがありました。
因みにワタンジとは、浜から干潮時に海面上に現れるピー(リーフエッジ)まで続く浅瀬のことです。
岩で波よけを作っているんですね。


その陸側には「舟溝開砕記念の塔」が設置されています。
舟溝が切り開かれその場所がここの東北東800mの位置にあることが記されています。


このすぐ横に「エジンバラ公フィリップ殿下白保訪問記念碑」があります。
エジンバラ公の訪問により、白保のサンゴ保護が国際的に取り上げられるようになったそうです。
良かったですね。どこかの大使も口先だけでなくジュゴンを守ってもらいたいですね。

WWF総裁
エジンバラ公フィリップ殿下
白保訪問記念
1992年3月3日

石垣新空港建設の建設地として、一時、白保海岸を埋立する計画がありました。
この案が発表された後、海外の研究者等から白保のサンゴ礁の希少性が世界に紹介され、白保のサンゴ礁の保護運動が本格化しました。
こうした中、平成4 年(1992)3月3日にWWF (世界自然保護基金)の総裁として英国エジンバラ公フィリップ殿下が白保海域のサンゴなどを
視察され、白保船着場に植樹をされました。
その後平成12 年(2000)4月に、白保集落内にWWF サンゴ礁保護研究センター(通称:しらほサンゴ村)が設置され、その開設10周年記念として
この地に記念碑が建てられました。

この碑の後ろは、ハーリー船の置き場となっています。


ここからさらに390号線を北上して新空港「南ぬ島石垣空港」方面にすすみ、そのすぐ先にカーラ岳という135.9mの小高い山があります。
ここに上る道が分からず、下から見た感じがこれです。
山は木が見当たらず全体が草地のようです。


更に進むと玉取崎展望台があります。
石垣島の一番狭くなる手前の所です。
うっすらと虹が出ていました。


この展望台からは西側と東側の海の間隔が250mしかない一番狭い伊原間地区が見えます。


この伊原間にある港が船越漁港で入り口にはこのような飾りがありました。
平久保崎をぐるっと回ると大変なので船を担いで運んだ、フナクヤー(舟越)がそのまま地名になったそうです。
海の色はとても綺麗です。



港からメインの県道206号線に戻り、左りに10m進んだところに気になる店がありました。
名前は「伊原間郷の駅」というカフェのようです。



入り口も少し異様ですが、中に入るとあっと驚く・・・・です。
店の中は壁も床も天井も貝殻だらけ。
店主に聞いてみたらこれらの貝は山が崩れてそこから出てきた物を少しづつ集めたそうです。
これは接着剤を使って無く、積み重ねているので、大型ダンプがゴトゴトと通ると、時には一部が崩れるとか。
ここで八重山そばを食べました。結構美味しかったですよ。



トイレの中もこんな感じです。



ここから206号線を少し北上したところにサビチ鍾乳洞があります。
入り口に説明板がありました。

サビチ鍾乳洞
この鍾乳洞は、石垣島が出来た3億7千万年前の頃に海底より浮上したものではないかと言われています。
伊原間の北西500mで、ハンナ岳の南西端に開口した貫通型の大型横穴です。
開口部は四ヶ所にあるが、中央のものは陥没型で最も大きく(18X18m)出口は、海岸に面した珍しい洞穴です。
主洞の長さは237m、支洞85mで全長324mあり洞穴の幅は平均15m、天井の高さはいろいろ変化するが、最高12mもあります。
この洞穴の前面には、ハンナ岳からのびた海抜30mの高い部分があります。
二次生成物は、つらら石、石柱、石筍、洞穴サンゴ、ヘリクタイなどがあります。
なお地質的には、洞穴は琉球石灰岩と、トムル層の不整合部に形成されているが琉球石灰岩には巨大な(3X4m、6X7m)タバネサンゴの化石や、
又、シャコ貝などいろいろな貝の化石なども見られます。
今この鍾乳洞は、地下美術館として、沖縄の工芸品、もしくは美術品を展示してあります。








この鍾乳洞を進んで行くと、とても綺麗な海岸に出ました。


海岸縁にもこんな鍾乳石が見られました。


海岸には散歩道があるので歩いてみました。
台風後で天気は時たま日は差すのですが、曇り状態が多く綺麗さも弱い感じです。
でも雰囲気はとても良いところですね。
纏めて何枚かを並べてみます。














これから石垣島の最北端にある平久保崎に行きます。

<続く>  


Posted by 夏が好き at 10:28Comments(4)

2014年08月25日

2014年沖縄の旅(石垣島 その6)No.13

石垣島市内散策の最後です。


美崎御嶽から390号線を八重山博物館方面に行くと(22)人頭税廃止百年記念の碑があります。
この説明は

人頭税廃止百年記念の碑
 近世から明治の後期に至るまで両先島(宮古・八重山)には、各個人に頭割りに課した人頭税があり、私たちの先人はその不合理で苛酷な
税制のもとで苦境にあえいでいた。
 宮古島における先覚者らによる人頭税廃止請願運動の盛り上がりと、沖縄県土地整理事業の完了により明治二六年(1903)一月一日から
新税法に移行し、人頭税は廃止となった。
それを記念して八重山では群民あげての祝賀会が催された。
 人頭税廃止百年に当たり、先人の苦労を後世に伝えると共に、その歴史的意義に鑑み、ここに記念碑を建立する。
2003年(平成15)一月一日
八重山人頭税廃止百年記念碑事業期成会

人頭税に関しては各地区で悲惨な出来事が沢山有ることがlこの旅で分かりました。
いつの時代にも一方的な都合の良い理由や欲望のために非人道的なことをするんですね。


更に20m程度進むと(23)「道路元標」があります。
ここに説明版が有りました。

道路元標
Zero Milestone
道路元標とは、道路の起終点等の基準位置を定めた標石である。1920(大正9)年に施行された旧道路法で、各市町村に一つ置くことと
されていたが、法改正により、その役割を終え徐々に姿を消していった。
 国内に現存する道路元標は、そのほとんどが戦前に設置され、法に基づき高さ60センチほどの四角柱状の石材に文字が彫られている
のに対し、この道路元標は、コンクリート化粧仕上げのオベリスク型の標柱に銅製のプレートを組み込んだ形となっている。
これは、戦後の米軍統治下に置かれていた八重山諸島政府の創立1周年を記念して設置されたものを復元したもので、その様式には
アメリカなどの影響が見られ、大変珍しく貴重なものとされている。
 また、設置当時の銅製のプレートには「1951年11月7日」の日付と「八重山群島政府」の名が刻まれており、戦後の行政機構の変遷を
物語るものとなっている。
 なお、設置当時のプレートは、石垣市立八重山博物館に保管されている。



この通りの人道には様々な模様の石絵が埋め込まれています。
沖縄らしいものが沢山有りました。







ここから少し北方向に進むと(24)「キィツィバカ御嶽」があります。
細長い鳥居でした。
ここの詳細も不明です。


ここからまっすぐ南に進むと有名な(25)730交差点に記念碑があります。
390号線と桟橋通り、市役所通りが交わる広い交差点です。
沖縄本土復帰(1972年)に伴い、右側通行から左側通行へ一斉に切り替えられた1978年7月30日を記念してこの名前が名付けられました。
当日は午前6時に消防署のサイレンと船の汽笛を合図に、一斉に左側通行に切り替わったそうです。



案内板にはこのような絵が描かれています。
おまわりさんの真剣な目と動作、自転車に乗るおじさんの驚きの表情が描かれています。
面白いのは流石に暖かい石垣島ですね、自転車のおじさんもスクーターのおじさんもサンダルとゴム草履のような履き物。
はじめは皆さん混乱したでしょうね。
特にお年寄りには危ないことも沢山有ったのではと思います。



今日一日(7月9日)で石垣島市内をまわった内容を6回に分けて乗せました。
一日の歩行数はナント3万歩以上でした。
さすがに疲れました。
でも廻ったのはほんの一部で、この市内だけでもまだまだ見ていない御嶽がかなりあります。
何カ所かすぐ側の地元の方に聞いても分からないところもあり、ちょっと残念でしたがこれくらいにしておきますね.
明日から3日間で石垣島をぐる~と廻ります。
また順番にアップしますね。

<続く>
  


Posted by 夏が好き at 17:52Comments(4)

2014年08月24日

2014年沖縄の旅(石垣島 その5)No.12

次はここを歩きます。


気象台から南に下ると(16)「天川御嶽(アーマーオン)」に着きます。
「天川御嶽」についての登野城村の伝承では、天川原の霊石を信仰していた篤農家がいつも豊漁であったことから、豊作・豊漁の神として
信仰されるようになったそうです。
登野城村の村公事(豊年祭や雨乞いなどの祭祀)が執り行なわれてきた御嶽で、石垣島の中でも上国役人や定納船の航海安全を祈る
七嶽(美崎・宮鳥・長崎・天川・糸数・名蔵・崎枝)の一つとされています。

「天川御嶽」の拝殿は1874年(明治7年)に茅ぶきで建立されて以来、3度改築されましたが、最後に改築された1963年から45年以上が経過し
老朽化が進んだため、2010年6月に実に135年ぶりに建替えられました。
なお、旧拝殿の解体工事は重機を使わず、素手で解体されたそうです。




こんな色鮮やかな説明版がありました。


更に南に歩いて大通りに出たところに(17) 「船着御嶽(フナツキィオン)」があります。

登野城漁港のすぐ近くにある御嶽で、御嶽の向かいには「サザンゲートブリッジ」があります。
かつては、宮良湾(西側)の入り江が船着御嶽のあるフナスク(船着き場)という地名のところまで入り込んでいて、ここが海上交易の
拠点となっていたようです。

登野城集落にとっては非常に重要な場所であり、アガリグヤの糸満系漁民たちの精神的支えともなっている御嶽です。
ユッカヌヒー(旧5月4日)には爬龍船が祭られ、海の恵みに感謝するとともに豊漁と航海安全が祈願されます。




ここからターミナル方向に向かう途中に(18)「真泊嶽」があります。
この御嶽に関しては情報が無くよく分かりませんでした。
場所は市役所通りにある大濱信泉記念館とこれから行く(19)「美崎御嶽」の中間の広場にありました。



それでは(19)「美崎御嶽(ミシャギオン)」に行きます。
「美崎御嶽」は、オヤケアカハチの乱を制圧した王府軍が海路を無事で首里に帰還できるよう、真乙姥(マイツバ)が美崎山の聖地に籠もって
祈願し、その願いが叶えられたことから創建された、航海安全祈願の御嶽です。
代々、八重山の蔵元が管理するクギィオン(公儀御嶽)として尊崇を集めてきました。
ここにある石碑にはこのように書かれています。

 県指定記念物 史跡
 県指定有形文化財 建築物  美崎御嶽
 尚真王のころ、石垣市登野城の美崎山に創建された航海安全を祈願するための御嶽である。
神名を大美崎トウハ、御イベ名は浦掛ノ神ガナシという。
 御嶽の由来については、遠弥計赤蜂の乱(AD1500年)の時に首里王府派遣の兵船の那覇港への安着を祈願して、神女の真乙姥が
籠もったところといわれている。
 御嶽の周囲は石垣がめぐり、中央部には拝殿にあたる拱式(アーチ)の石門がある。
石門の構造は、屋根石を架し、棟中央に火炎宝珠を乗せている。
規模こそ小さいが首里王城下の園比屋武御嶽に類似するといわれている。
この拝殿を「イビの前」と称し、その奥には石や岩、大木等があり、そこをイビと称している。
 この御嶽は、王府より派遣された役人の離着任時、農耕儀礼などに高官や大阿母によって拝され、公儀であった。現在は字大川の村
拝所として住民の信仰地となっている。
昭和31年2月、県指定有形文化財(建造物)としても指定され、史跡と建造物の二重指定をうけている。
      指定年月日 昭和31年2月20日 建造物
               昭和31年2月22日 史跡
      平成6年3月 沖縄県教育委員会
               石垣市教育委員会

鳥居と拝殿
重要文化財史跡美崎御嶽と記された石柱が鳥居の左に斜めになって立っています。


拝殿です。


拝殿の奥にイビ石門があります。


この敷地内には(20)「蔵元の火の神」があります。
「蔵元の火の神」は元々「西塘」が竹富島に蔵元政庁を創設した際に建立したと伝えられ、琉球王国の安定、八重山や蔵元政治の守護を
祈るものでした。
その後、石垣島に蔵元が移設されるのに併せて移されました。
その蔵元は、現在の八重山支庁・八重山博物館を含む一帯にありましたが、今では美崎御嶽の境内に移転されています。


同じくこの敷地内には(21)「ユーヌ火の神」があります。
美崎御嶽の鳥居を入った左手(北側)にある御嶽ですが、由来についてはよく分かりません。


<続く>  


Posted by 夏が好き at 12:43Comments(2)

2014年08月22日

テレビ朝日(番外編)

今夏休みで各テレビ局は色々な催し物をやっている。
今日は都心に用事があったので出かけ、時間が少しあったので六本木のテレビ朝日に行ってきた。
その前に、銀座一丁目に広島ブランドショップのアンテナショップがあります。
そこでまずはお好み焼きの広島焼きで腹ごしらえです。


この2階に「お好み焼き三匠」と言う店があるのでここで食べました。
キャベツが山盛りですが、少しすると横にあるような高さが無くなった大きさになります。
正直に書くと、残念ながら味は期待したほどではなかった。


ここを出てテレビ朝日に着くと、かき氷やさん5軒が並んでいる。
この中の1軒は大行列だ。
理由は日光の天然氷で作るかき氷だそうでかき氷が氷のザラザラではなくふわふわらしい。
食べたかったけどこの大行列で最後尾は約2時間待ちだそうです。
時間がないので止めました。



広場には66体のドラえもんが居ます。


ドラえもんは耳がないのに、黄色い耳のあるドラえもんが居ました。


内部に入ると様々な催し物です。
真ん中・左の方に変なおじさんが・・


ゴーちゃん


無人島0円生活



のび太の部屋


そして最後に変なおじさんの登場です。
いつ出るの? 今でしょ!


最後は徹子の部屋です。


本来の目的の時間になったのでテレビ朝日を後にしました。

準々決勝の沖縄尚学、今日は残念でした。
でもよく頑張ったよ。
来年に向け、また皆で頑張りましょ。
お疲れ様でした。
  


Posted by 夏が好き at 22:14Comments(0)

2014年08月20日

2014年沖縄の旅(石垣島 その4)No.11

次のコースです。


宮良殿内で少し休んだのでまた進みましょ。
まずは(10)「フクギ並木」です。
それほど大きくはありませんがこの夏場の暑い時期には涼しい感じです。


ここから北方向に(11)「 築ましや(チィンマーセー)」という
形の面白そうな大きなアコウの木があるので行ってみます。
途中に幼稚園がありその庭(駐車場)に井戸がありました。
ちょっと不思議な感じです。


これが(11)「 築ましや(チィンマーセー)」です。
Y字型に道が分かれた真ん中に立っていますね。
近くで見ると何とも力強い雰囲気でした。



次は(12)「アコーバルカー」という井戸に行きます。
ここより南に少し行った所です。
その途中にもまた井戸がありました。


歩いているとあちこちに井戸が見られます。
この「アコーバルカー」は昔、ウキマシヤー(上地家)で飼っていた犬が発見したと伝えられています。この井戸は干ばつになっても水が涸れること
なく、飲料水としても使われていました。
このすぐ横に住んでる方に聞いたら、飲み水ではないが今でもこの水をポンプでくみ上げて色々なことに使用してるとのことです。
そして、こんな質問をしました。
「石垣島には道路のあちこちに井戸が沢山有り、このように道の真ん中にもそのままあるが、使ってもなさそうな井戸までそのままになっていて、
邪魔ではないか」と聞いたら、「井戸は神が宿っており井戸をとても大切にしている。だから決して埋めたり崩したりはしない。
邪魔なら自分が避ければいい」と言われました。確かにその通りですね。
このような昔からの言い伝えを今でも大切に守ってる沖縄の方々は本当に素晴らしいなと思います。
一般的には効率だとか邪魔なモノは排除とか、利益にならないことはしないとか物欲の時代になってしまいました。
でも沖縄に行くとどの島でもオジイ・オバアと話をするだけでとても良い気持ちになります。
昔からの風習を大切に守っているそんな生活を見てるととても心が和みます。
これが本当の平和なんでしょう。でもそれを忘れてる人が多すぎますね。



ここから少し南に(13)「津波石」があります。
なかなか見つからず、のども渇いたので側にあった「まつむとぅ家」というカフェがあったので入ってみると右側に探していた「津波石」がありました。


ここにはこのように書かれています。

津波石(つなみいし)
1771年八重山地震明和の大津波によって海中にあった大石が陸に打ち上げられました。そのうち現在、四ヶ字で残っているのが「まつむとぅ家」の
津波石です。
こんな大きな岩が流されてくる津波を思うと東北の津波を思い出してしまいます。


話は飛びますが、この四ヶ字ってなんだろうと思って調べたら
四ヶ字と呼ばれる4地区(登野城・大川・石垣・新川)の事なんですね。

石垣島の四ヶ字と呼ばれるこの4地区(登野城・大川・石垣・新川)では旧暦6月に農耕儀礼が2日間行われるそうです。
初日は各字にある御嶽にその年の収穫物を供える感謝儀礼で御嶽(オン)ですることからオンプール(オンプーリィ)というそうです。
2日目は新川にある真乙姥(まいつば)御嶽で行われる翌年の豊年を願う予祝儀礼で、村をあげて行うことからムラプール(ムラプーリィ)と
いわれています。
知らないことがまた一つ分かりました。

ここから更に南へ進むと(14) 「岩崎卓爾」の胸像があります。
しかし場所が分からず気象台のアパート団地の中をうろうろ歩いていたらここの住民が居ましたので聞いてみると、隣にある地方気象台の敷地内に
あると聞き、本当はここの職員しか通れない裏道を特別に通してくれました。
ぐる~と廻ると大変でしたが最短で行けたので感謝です。有り難うございました。
石垣島地方気象台構内には石垣島測候所の2代目所長岩崎卓爾の胸像が建っています。
宮城県生まれの岩崎さんは、29歳から68歳で没するまでの40年間八重山に住み、八重山の自然と人情を愛し、測候所の仕事だけでなく、
気象業務を広く住民に紹介しました。
また、石垣島の人々から「テンブンヤー」(天文屋)の「ウシュマイ」(御主前:じいさん)と親しまれたようです。
この胸像は昭和7年(1932年)の退官直後に有志がその功績を讃えるために製作したものです。



この石垣島地方気象台の壁には太平洋戦争で攻撃を受け、塀にはた弾痕跡が残っています。              
(15) 太平洋戦争弾痕跡
気象台の壁を修復する際に、この一部だけを残して新しい塀に組み込まれています。
もう一部は8月16日にアップした「2014年沖縄の旅(石垣島 その1)No.8」でお見せした新栄公園におかれたものです。
今年の5月15日に八重山文化研究会がこの弾痕跡を「平和の壁」として残し、説明板を建てることについて意見交換されたようです。
二度と戦争を起こさないためにも必ず残して欲しいですね。



<続く>  


Posted by 夏が好き at 23:43Comments(2)

2014年08月19日

2014年沖縄の旅(石垣島 その3)No.10

今回の説明順です。


次は石垣小学校前の(6)「宮鳥御嶽」に行きます。
ここは石垣村の起源とされており、ここから登野城・大川・新川の各村に分村されたという、四箇字創建の神話を伝える御嶽だそうです。
かつて「宮鳥御嶽」の敷地は、現在の石垣小学校の全敷地を含む広大な森でしたが、明治時代に校舎建築のため現在の規模になったそうです。
この横には幼稚園もあり、境内や拝殿の前に車が沢山停められていました。


「宮鳥御嶽」イビ門


イビ門内部に入るのは神様に失礼になるので外から望遠で写しました。


ここにある説明書にはこう書かれています。

  宮鳥御嶽(みやとりおん)
  石垣市指定文化財(有形民俗文化財)
  平成8年(1996)11月12日指定

 この御嶽は、文献上は最初に「八重山嶋由来記(やえやまじまゆらいき)」(1705年)に記載されており、「琉球國由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)」
(1713年)には「宮屋鳥御嶽」という表記もある。
 方言では「メートゥルオン」などと呼ばれている。 神名は「ヲレハナ」、御イベ名は「豊見タトライ」とある。
 上の二つの由来記によれば、「石城山(いしすくやま)に住んでいたナアタハツ、平川(ひさがー)カワラ、マタネマシズの三兄弟妹がここを御嶽
として拝み始めると作物が豊かに実るようになった。
 すると、人々は彼らを慕い、周りに集り住むようになった。そして、人々が増え、石垣・登野城両村へと発展していった。」と伝えられている。
 このように石垣四カ村発祥の伝承をもつ御嶽であり、字石垣の豊年祭をはじめとする年中行事の舞台となる御嶽であることなどから石垣市の重要な
文化遺産になっている。
 境内全体の構成は、鳥居、拝殿、イビ手前の木造の門、石造のイビ門、イビ内の祠(ほこら)が南北の軸線上に配置されている。
 拝殿の敷地には砂が敷かれ、段差のある三つの領域に区分されている。
 拝殿(大正12年改築)は、桁行(けたゆき)約6.73m、梁間(はりま)約5.82mの木造入母屋赤瓦葺である。 拝殿の背後の敷地はさらに
約70cm高くなっており、拝殿後方両脇と中央部後方に石段が設けられている。
 その奥にはイビ垣を囲む栗石積みの垣があり、その中央に木造切妻造赤瓦葺門(薬医門型)がある。
 イビ垣内部には、正面と左右に門を開いた石垣で囲われた領域があり、正面の門には琉球石灰岩の大きな一枚岩がのせられている。
 御嶽全体を包み込むようにそびえ立つ樹木のなかに、県指定の天然記念物リュウウキュウチシャノキも自生している。
 なお、この地域を無断で現状変更することは、石垣市文化財保護条例で禁止されている。
  平成14年(2002)3月 石垣市教育委員会


次は(7)「ソーソーマカー」という井戸です。
宮鳥御嶽の神に捧げる水を汲んだ井戸で、「ソーソーマカー」とは清水の湧く井戸という意味のようです。
昼は人が、夜は神が、つまり神人の協力によって掘られたと伝えられています。
別名を「フタナカカー」と言うようです。
住宅と住宅の間にあり周囲の数人に聞いてもこの井戸が)「ソーソーマカー」なのかどうか分からないと言われたほど有名ではないようですね。


ソーソーマカーから裏道を通って行くと左側に(8)「長田大翁主霊」があります。
ここには八重山の群雄割拠時代の英雄の一人、長田大翁主(ナータウフシュ)の霊が祀られています。
長田大翁主は1500年のオヤケアカハチの乱で、琉球王府軍側につきアカハチを討伐し、その功績により古見首里大屋子という要職に
任命されました。
この石碑は長田大翁主を称えるためのもので、彼はこの地で身を隠し神となったと云い伝えられています。



次に(9)宮良殿内に行きます。
途中で使われていない様な古い民家がありその軒下に子猫が居ました。
何も食べ物を持っていなかったのであげることが出来ず・・・かわいそうでした。
近寄ったら怖かったのか軒下の奥の方に潜ってしまいました。
野良猫なんでしょうね。誰かにちゃんと飼ってもらえてると良いけど。
とても気になります。



(9)「宮良殿内 (ミヤラドゥンチ)」に着きました。
ここは入場料が必要です。
石垣市の市街地、大川にある王府時代の建造物、宮良殿内(ミヤラドゥンチ)は、宮良間切の頭職、宮良当演が1819年に建てた私宅です。
沖縄における殿内構造の唯一の遺跡で石灰岩の巨石を配した京都風の枯山水庭園があります。この庭園は、首里の代表的庭師、城間親雲上が
造園したと伝えられています。

しかし首里の貴族屋敷をならった建築といわれ、王府時代の住宅は階級により決められた制度を守る必要があったようで、八重山の頭がこのような
家屋敷を構えるのは違法であるとして5回にわたって首里王府から取り壌しを命じられたそうですが、なかなかそれに従わず、1874年(尚泰27)に
検使の指示によって茅葺きに改められたようですが、1879年の廃藩置県後にはこの様な赤瓦に戻したそうです。

屋内には入れないので縁側に座って庭を見ていたらここの受付の方が暑いでしょうと行って扇風機を出してくれました。
少し疲れもあったので、涼みながらしばらくこの庭園を見てました。






庭の端奥に便所がありました。
昔のトイレはどこも別棟なんですよね。


<続く>  


Posted by 夏が好き at 20:38Comments(5)

2014年08月18日

沖縄の本(番外編)

近所のBook offに行って沖縄の本を探した。
一冊だけ良いのがあったので買ってきました。
この本がナント105円です。
消費税が上がる前からのシールが張ってあります。
それにしてもこの本が105円で買えるなんて安すぎです。
プリントは1981年でした。
33年前に2900円で発売された結構高い本です。

本は世界文化社が発行した「美しい日本」のシリーズで今回買ったのは、
「美しい日本-12  沖縄・小笠原の自然」というタイトルです。

沢山の写真や沖縄の文化、歴史も載っています。
以前にもBook offで「沖縄」というタイトルの同じような本を105円で買いました。
これで古い写真のある沖縄の本が2冊増えました。

しかし、こんな綺麗な環境をいま辺野古では多大な国民の税金を掛けて壊されかかっています。
一度壊れたら、もう二度と元には戻らないでしょう。
何故自然の大切さが分からないんでしょう。
悔しいですね。
そんな多大な金があるなら今の時期、雨災害で被害を受けた多くの所の対処と、
今後に向けての災害対策にみんなの税金を使うべきではないのかな。
それが国民の望む政治だと思うけど。







  


Posted by 夏が好き at 17:39Comments(2)

2014年08月17日

2014年沖縄の旅(石垣島 その2)No.9

ホテルを出て平和の記念碑のあった新栄公園を通過し市内を回ります。
今回はそれほど有名な場所ではなく、それでも重要な場所を回りたいと思い、主にお寺や御嶽関係を巡ります。
回った場所の地図を載せますね。
歩いた順番に赤色の番号で表示します。


はじめに
(1)「桃林寺と権現堂」です
桃林寺は八重山に社寺がなかったため、琉球に侵入した薩摩藩が琉球第2尚氏王朝7代目の国王・尚寧に進言して慶長19年(1614)に創建され
たようです。
桃林寺は臨済宗の寺院で、山門の2体の仁王像は元文2年(1737)に作られた沖縄最古の木造彫刻があるのですが、このときは見あたらなく
残念です。なぜだか理由が分かりません。
この仁王像は1956年に県指定有形文化財に指定されており、1996年に京都で修復されたようなので見たかった。



この桃林寺に隣接するのが熊野権現をまつる権現堂で、1771年の明和の大津波で被害を受けましたが1786年に再建されました。
この建物は現存する沖縄最古の木造建築だそうで、国指定重要文化財になってます。
権現堂の石碑にはこう書かれています。

 権現堂(ごんげんどう)
     重要文化財
     国指定 昭和56年6月
 薩摩藩が尚寧王に寺社の建立を進言したことから1614年(慶長19)桃林寺と同時に創建された祭神は熊野権現を勧請したもので
 八重山における寺社建立のはじめであり 貴重な文化遺産である 切妻造りの薬医門 室内に土間を取り込み両脇に祭壇を配した拝殿
 棟上の火焔宝珠 竜頭等細部手法に特色をもつ神殿 からなりそれぞれが軸線上に建造されている
 御神木の宝鏡は銅製で琉球最古のものといわれ ほかに木彫りの仏像も併祀されている
 1771年(明和8)の大津波により潰滅したが 1786年(天明6)に再建された その後 1882年(明治15)神殿を改建
 1910年(同43)に一部修復された
 太平洋戦争で大破したが1947年(昭和22)に修復 1973年(同48) 1978年(同53)に部分修理を加え 1985年(同60)
 薬医門 拝殿 扉絵を含む神殿及び石牆を修理した
     昭和61年1月吉日
     石垣市教育委員会





次は(2)「石垣氏庭園の門」です。
日本庭園のうち日本最南端にある庭園で沖縄の名園のひとつです。
残念ながら庭園には入れませんでしたがその入り口の門前を通過しました。


次は(3)「八重山キリシタン事件殉教の地」です。
八重山キリシタン事件とは1624年、八重山の有力者石垣永将が当時禁教のキリスト教を受け入れ、親族郎党キリシタンになり、
当人と弟永弘が死刑となり、財産没収、家族も島流しになったという事件です。
彼らは琉球最初のキリシタン殉教者だそうです。
ここの石碑にはこのように書かれていました。

八重山キリシタン事件 殉教の地
 一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ
嘉善姓一門を中心にひろまったが国禁であるキリスト教を信仰したとして「八重山キリシタン事件」と呼ばれるキリシタン弾圧事件がおこった。
 一六二四年、宮良親雲上永将は首謀者として当地(オンナー)において焚刑に処せられ、財産は没収。子孫は波照間島や与那国島、
宮古島に流された。
ルエダ神父は、琉球王国に連行されたのち粟国島へ流刑となり、そこで殺害された。
 一六二九年にはトマス・デ・サン・ハシン西六左衛門神父が日本への密航の途中に石垣島に立ち寄り、永将の弟宮良頭の永弘や
大城与人安師と接触したとして翌年ふたりは琉球王国へ連行された。
永弘は渡名喜島へ流刑となり、一六三五年に焚刑に処せられるが、安師は慶良間島へ流刑となった後に赦されて帰島する(一六四二年)。
 さらに、一六三八年には宗門改めの踏み絵により永将の弟の宮良与人永定がキリシタンとして永将同様当地(オンナー)で焚刑に処せられた。
 この一連の事件は薩摩侵入(一六〇九年)後の琉球唯一のキリシタン弾圧による殉教事件である。
 本宮良の主と呼ばれた永将翁が処刑されるときに歌ったとされるのが「大野ダキアヨウ」である。
 祠の中の霊石は、焚刑に処せられた本宮良の主永将翁と宮良与人永定翁のものと伝えられる。永将翁の紋所「四つ巴」は心の字数を
表しているといわれる。
 二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)
                      嘉善姓一門会

その時代時代で人の考えが違うようですが、それは時代によるものでなく統制を取る人の考え方なんでしょうね。



次はここから北方向にある(4)「真乙姥御嶽」です。
1500年、オヤケアカハチの乱で、琉球王府・中山軍に協力した八重山の群雄割拠時代の英雄、長田大翁主(ナータウフシュ)の
妹・真乙姥(マイツバ)という女性を祀った御嶽です。
説明によると
 オヤケアカハチと敵対した長田大翁主(なーたふーじぃ)には、真乙姥(まいちぃばー)と古乙姥(くいつば)の二人の妹がいましたが、
長田大翁主は妹の古乙姥を今で言う政略結婚という形でオヤケアカハチの元に嫁がせ、隙を見てオヤケアカハチを暗殺するように指示しました。 しかし、古乙姥はオヤケアカハチを愛してしまい、兄の企みには加担せず、結果としてオヤケアカハチとともに王府軍に殺されてしまいました。
 一方、長田大翁主のもう一人の妹、真乙姥は兄に従い王府軍のために働きました。
 オヤケアカハチの乱鎮定後、王府軍が首里まで無事帰還できるよう、美崎山へこもって祈願しこれが叶ったということから
永良比金(イランビンガニ)という神職を授けられました。 
 その後、真乙姥は人々の尊敬を集め神職としての役目を全うし、没後は立派な墓が作られ供養されました。そして、この墓地は
真乙姥御嶽として多くの人々から崇敬されるようになりました。

と言う内容でなんだか複雑な気持ちになります。
ここには石垣市の「緑の戸籍簿」登録樹種、推定200~300年の大きなオオバアコウが生育しています。




この庭にあった木から落ちたと思われる5Cm位の大きな種が散らばっていました。
何という木の種なんだろう。


このすぐ側の道路を少し上がると(5)「真乙姥井戸(マイツバカー)」があります。
石垣中学校の正門前で、なんと十字路の道のど真ん中にあります。
丸い石造りの井戸は、コンクリートで蓋がされ使用されている様子はありませんが、桶を吊り下げていたと思われる金具などが昔のまま残されて
います。
この井戸は、真乙姥御嶽を深く信仰していた宇根通事(ウーニトゥージ)という地元の船頭が掘ったとされ、今でもこの井戸の水は神事に使われて
いるそうです。

井戸の正面には次のように記されていました。
 昭和五十七年初春
 真乙姥井戸
 宇根弘


<続く>



  


Posted by 夏が好き at 11:59Comments(2)

2014年08月16日

2014年沖縄の旅(石垣島 その1)No.8

7日から波照間島に行く予定でしたが台風が近づいてきたので船浮から石垣島に来ました。
夕刻からかなり風が強くなりましたが、8日の最悪に備え食糧の確保をし、早々とホテルで時間を過ごしました。
8日は以前にブログでも紹介しましたが風と雨がひどく一歩も外に出ませんでした。
ホテル内では揺れも音も殆どしませんでしたが、玄関に出てみると風の強さと雨の激しさにビックリです。
沖縄の台風は発生したばかりなので本土で受ける台風よりもかなり風が強いなと感じました。
毎年、必ずと言って良いほどこの台風を受けてる沖縄ですが、みんなそれに耐えてるんだとその強さを実感しました。
今年は本土でも台風の影響による被害が大きくなってます。
これも人間が引き起こした温暖化などの影響もあるんだろうなと思います。
自然を大事にしないと大変なことになることを世界中のみんなが真剣に考えて欲しいです。

<以前アップした台風の時の写真>
話をもどしまして、9日の今日は曇り空と少し風はあるものの、雨は降っていないので石垣市内を散策することにしました。
あまり観光名所になっていないような所をメインに巡ってみます。

ホテルを出て少し歩くと市立図書館前に石垣島のご当地キャラ!カンムリワシの「ぱいーぐる」がいました。
なんで「ぱいーぐる」なのかと思ったら「パイ」とは沖縄方言で南を指し、カンムリワシのイーグル(鷲)で「ぱいーぐる」だそうです。なるほど。


図書館の前には大きな新栄公園があります。
ここにいくつかのモニュメントがあります。
まずは入り口に「石垣市非核平和都市宣言」と「石垣市 非核平和宣言都市」の石碑です。
内容はこのように書かれています。

人類の生存と平和をおびやかす核軍備を人類社会から
     追放、廃絶させ、真の恒久平和を確立することは、
     全世界の人々がひとしく希求するところである。

     しかしながら、通常兵器はもとより、核兵器による軍備拡大競争、
     並びに世界各地における局地的紛争は依然として続き、
     世界情勢は一段と厳しく憂慮すべき事態にある。

     このことは、我々がかつて経験した太平洋戦争の悲劇を忘却した
     暴挙であり、国際協調と平和を理念とするわが国憲法の精神、
     並びに地方自治の本旨からして看過できない。

     従って、平和で豊かな自然文化都市をめざす石垣市は、
     わが国憲法の崇高な理念に基づき、非核三原則の
     完全実施を求めるとともに、平和を愛する全世界の人々と相携えて、
     すべての核兵器の廃絶を強く訴え、ここに石垣市が永久に
     非核平和都市建設に邁進せんことを高らかに宣言する。

         昭和五十九年(1984年) 三月二十九日 制定



この奥に「世界平和の鐘」があります。
ここにもこのように書かれています。

 昭和29年(1954年)に戦争の悲惨さ、核廃絶、平和の尊さを訴えて、65カ国のコインやメダルなどで鋳造された「世界平和の鐘」は、
 日本から米国ニューヨークの国連本部に寄贈されました。
 世界の人々が「平和」を祈り、「平和」を考える日になることを願い、毎年国連総会開会の日-「国際平和の日」に全世界に向けて国連事務総長が
 鐘打します。
 世界の恒久平和は、美しい自然・かおり高い文化を誇る日本最南端の都市に住む私たち石垣市民のすべての願いです。
     昭和63年12月10日設置
     「世界平和の鐘の会」沖縄県支部



そのまたすぐ奥に「ほほえみの鐘」がありこのように書かれています。

 「世界平和の鐘」が設置された昭和63年(1985年)に、「ほほえみの鐘」も併せて設置されました。
 この鐘は「非核平和都市宣言」をした石垣市民の善意によって設置されたもので、未来を担う子ども達の幸せとすこやかな成長・世界の永遠の
 平和の祈りが込められています。
 私たち石垣市民は、市民ぐるみの子育てと平和を求める運動を進め、市民一人ひとりのたゆまぬ努力を誓います。
    昭和63年12月10日設置
   「世界平和の鐘の会」沖縄県支部



さらに奥には「戦争の放棄」という石碑があります。
表面にはこのように書かれています。

  戦争の放棄
  日本国憲法
  第2章 戦争の放棄
  第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による
  威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



そして裏面にはこう書かれています。

 憲法九条は、日本と世界の平和及び安全の道標であることを確信している。しかし、内外の諸情勢にはいぜん厳しいものがある。
 よって私たちは迷うことなく「憲法九条の碑」をここに設置し、改めて内外にその意義を闡明(せんめい)にする。
          2004年11月3日
     「憲法九条の碑」設置石垣市民の会
       会   長  森田孫榮
       デザイン  湖平正道
         書    豊平峰雲


今の政府はこの9条が邪魔なんですね。
これだけ国民が戦争の悲惨さを訴え、世界の永遠の平和を望んでるのに、安易に武力で対抗する環境を造ることが平和を守ると言っている。
そうではなくて今まで通り9条をしっかり守りそのことを世界にアピールして、話し合いで解決する道筋を切り開く努力をすべきだと思います。
我々が日常生活の中で喧嘩し殴り合うと犯罪になります。
でも規模の大きい国同士の喧嘩は犯罪でなく美徳とされるんですね。

これだけ国民の切なる気持ちが書かれているのに、記念碑なんて何の意味も効果もないんですね。
書いていて気分が良くないので今日はこれで終わります。
<続く>

書き忘れがありましたので追加します。
太平洋戦争当時、石垣島地方気象台の壁は銃弾による弾痕の跡が無数残りました。
その一部を新栄公園に移設されています。



<続く>  


Posted by 夏が好き at 10:05Comments(4)

2014年08月15日

今日は何の日?(番外編)

8月15日って何の日なの??
今日というこの日に辺野古で戦争の基地を造ろうとしてる。
言うことと行動が真反対だ!
とても気分が悪い!!  


Posted by 夏が好き at 20:27Comments(2)

2014年08月12日

2014年沖縄の旅(西表島船浮集落 その3)No.7

それではもう一箇所、網取湾の一番奥にある砂浜に用事があるとのことで行くことになりました。
その場所はあの「イリオモテのターザン」で有名なウダラ浜です。



このビーチは通称、「ケイユウオジイとシロの浜」と呼ばれています。
その場所にこの石碑があり、側にはターザンが大好きだったお酒の瓶が一緒に置いてありました。


イリオモテのターザン(砂川恵勇さん)は宮古島出身ですが何から何までたったひとり自給自足で暮らしていましたが、そこへ都会生活に
疲れ果てていた元中学校美術科教諭水田耕平さんがこのターザンと出会い2年間一緒に暮らしたそうです。
恵勇爺の生き方に感動した水田耕平さんが、爺との会話を本にし、自分の美術の腕でその話に合った挿絵を描いた本などが出版されています。
今はもうターザンは無くなっていますが、水田さんは毎年この浜に3週間から2ヶ月くらいキャンプしているようです。

実はこの2日後に台風が来るのでしばらく石垣島に避難するので迎えに来て欲しいと連絡があったようで今回、そこに行きました。
水田さんは穏やかな優しい感じの73歳の年配です。


翌日、僕は波照間に行く予定でしたが台風で舟が欠航になるとのことなので仕方なく石垣島に上陸することにしました。
その舟の中でまた偶然に水田さんと出会い石垣島までの時間をターザンの話から自分の今までのいきさつなど話してくれました。
その中で、これから何を書こうか悩んでるとの話があり、「ターザンとの出会いで色々な話を纏めてこられたのですから、今度はそれ以降の
自分のあり方、生き方を書いてみたらどうですか」と生意気なことを言ってしまった。
水田さんは気持ちよく、「そうですね、それは良いかもしれません」と言ってくれました。なんだか自分が恥ずかしくなりました。

現在発行されてる本は
・イリオモテのターザン―南島独居譚
・イリオモテのターザン(画文集) -恵勇爺と泡盛談-
です。

水田耕平さんに関してはおきなべさんのブログにもアップされています。
http://hateruma11.ti-da.net/e4861910.html
2013年06月03日  イリオモテのターザン

ターザンの住んでいる周辺を見て回りました。
今の時期に咲くサガリバナが綺麗に水面に浮かんでいます。



水田耕平さんを乗せて港に戻りますが、その前に港から近い場所にある「水落の滝」を見に行きます。
この滝はクイラ川支流にあってマングローブの水路を通って進み、その突き当たりにあります。





雑念を打ち払い精神統一のために滝行を行いました!???


今回のこの舟を操船し、各場所を案内してくれたのは皆さんもご存じのシンガーソングライターの池田卓くんです。
イケメンで性格も明るく人当たりもとても良い好青年で,自分の生まれ育ったこの西表・船浮を多くの方々に見て頂きたいとの島への思いで、
公演で忙しい中、少しでも時間あるときに頑張っています。
こんな青年には応援したくなりますね。

実は今回この船浮に宿泊した民宿の息子さんが池田卓くんなんですよ。
お父さんもお母さんも明るく良い感じでした。


食事を終えまた夕日を見に出かけました。
夕日は綺麗ですね。


翌朝、と言っても朝3時ですが民宿に泊まった人たちとの話の中で天の川を見に行こうと言うことになりました。
お月さんの影響のない朝3時に決まり、眠い中、イダの浜に出かけました。
周りが暗く、星が綺麗に見えます。




真っ暗な道ばたに落ちていたアダンの実をヤシガニが美味しそうに食べてました。
ライトやフラッシュを焚いても驚かず黙々と食べていました。


朝ご飯を済ませこれから石垣島に向かいます。
今回お世話になったふなうき莊でオーナーの奥さん(中央の青色のシャツ)と民宿に泊まった皆さんで写真を撮りました。
とても居心地の良い民宿でした。


本当は今日から波照間島に移動予定でしたが台風が近づき船も出ないので石垣島に避難することにしました。
残念です。

<続く>  


Posted by 夏が好き at 21:58Comments(8)

2014年08月11日

2014年沖縄の旅(西表島船浮集落 その2)No.6

今回の船浮集落の周辺場所です。
赤丸の場所の写真をアップします。


今日は舟に乗ってこの船浮から更に西側にある東海大学海洋学部の研究施設に行くことにしました。
こんな辺鄙なところに何故あるのか以前からどんなところか気になっていました。
その前に外離島に用事があるので寄っていくとのこと。
ナントそこはテレビでも時々見かける裸のオジイさんが居る無人島です。
これが外離島です。


砂浜近くに人影が見えます。


この方が無人島に住み着いている裸のオジイさんです。
話を聞いてみると58歳の時に人間関係にいろいろあり20年間ここで暮らしているそうです。
現在78歳ですがとても元気です。

海岸から20m奥に入ったところにテントを張りそこが居住区になっています。
奥にももう一つのテントと横に自分で作った小屋があります。
1ヶ月前にテレビ局の人がしばらく居て疲れたと言っていました。
お土産にジャックダニエルを3本もらったので、これを少しづつ飲むのが楽しみだそうです。


この海岸もとても綺麗でした。


オジイさんとお別れしていよいよ目的の東海大学海洋学部の研究施設に向かいます。
ここは昔、網取村があり、西表炭坑の採掘場がありましたが太平洋戦争が終結して採掘が中止された後は急速に衰退し、1971年にこの網取村が
廃村となりました。
廃村となった網取村の小学校跡地を1976年に東海大学が譲り受け東海大学海洋研究所を設置しました。
ここでは気象・海象・地震観測のための機器を設置し、自家発電と簡易水道により調査・研究・教育活動をおこなっています。
裏庭にソーラーパネルがありました。
常駐しているわけではありませんが週に2便ほど連絡船が行き来しているようです。




この庭に「あんとぅり」と書かれた石碑があります。
そこにはこのように書かれていました。
「網取村跡の碑
 網取村は西表島の最南端に三百有余年の歩みを残した。
耕地や交通の不便と人頭税の重圧に耐えて村人は父祖の築
いた繁栄を守ってきた。しかし、政治の貧困による経済の
行きづまりと医療、教育の不備を始めとする孤島苦がつの
り、ついに昭和四十六年七月十四日に全員離村を余儀なく
された。ここに私たちは全体の祖先の霊を祀り、四散した
村人のよりどころとするためにこの碑を建てる。
 平成八年九月吉日  うるち会建立」


また山田武男さんが書かれた「わが故郷アントゥリ」という書籍があります。
この巻頭にはこう書かれています。

「西表島の西南部にあった私たちの村(シマ)網取(あみとり、方言でアントゥリ)が余儀なく廃村となったのは昭和46年の夏のことでした。
戦後、一時は200人もの住人がいた網取村も、昭和32、3年頃から若者がどんどん町へ出て行き続けて村の人口が減り、昭和40年頃には学校の
生徒数も学校運営が危ぶまれるほど減ってしまいました。
昭和45年には戸数が7戸になり、入学児童もいないので廃校になりました。
それと時を同じくして36人の村人は移住を決め、昭和46年(1971年)7月14日をもって村建て以後少なくとも三百数十年を数える網取村の灯は消え
去りました。」

網取り集落でもいろいろな出来事があり、そんな話を聞いたり見たりすると考えさせられます。


この周辺の海の色も透明度も、とてつもなく綺麗です。


ここで5分間程度、海岸のゴミを拾いました。
海岸を少しでも綺麗にしたいという船頭さんの思いです。
この船頭さんについては後でまた説明しますね。
<続く>  


Posted by 夏が好き at 14:30Comments(4)

2014年08月09日

2014年沖縄の旅(西表島船浮集落 その1)No.5

鳩間島から舟で西表島の上原港に渡りそこから道路があるこの島の最終点の白浜まで行って、そこから更に舟に乗り陸の孤島と言われている
「船浮集落」に向かいます。

昨年はこの地に宿泊せず日帰りでしたが、とても綺麗な場所なので今回は宿泊してゆっくり見て回ることにしました。
荷物を民宿に置いて早速集落の西側にあるイダの浜に行ってみました。
静かでとても綺麗な場所です。
今回はイダの浜だけを左側から右側にかけ一気にお見せします。














一旦宿に帰り、夕食を済ませて夕日を見に出かけましたが、雲が多かった。


<続く>  


Posted by 夏が好き at 08:57Comments(2)

2014年08月08日

2014年沖縄の旅(鳩間島その4)No.4

昨夜9時過ぎに星を見に海岸へ行きましたがお月さんが輝いていて殆ど見ることができませんでした。
それでお月さんが沈む午前2時にもう一度海岸に行き天の川の写真を撮りました。
東京では見られない満天の星空です。


星を取り終えて民宿に戻り一眠りしたら朝の8時でした。
朝食を終えてこの民宿のすぐ裏に「アンヌカー(東の井戸)」があるので見に行きました。

アンヌカー(東の井戸)は大きなガジュマルの木の下、自然の洞窟の中に湧いていた泉です。
昔は島民の貴重な飲料水となっていました。
入り口に石碑があります。
「下り井(アンヌカ)の碑
     自然の洞窟の傾斜地を下った
     所に泉がある 昔島人にとって唯一の
     飲料水だったという」
と書かれています。


このような石段を下りると洞窟があります。
洞窟はけっこう大きく、夏でも涼し気な雰囲気が漂っています。




この島にはもうひとつの井戸、インヌカー(西の井戸)がありますが今回は見ることができませんでした。
宿に戻って今日の11時35分の舟で西表島に移動します。
宿の小さな水槽に真っ赤な花が咲いていました。
夕刻は花びらが閉じていますが朝になるとこんなに大きく開いて朝を迎えます。


今回は都間島でお世話になった民宿は「鳩間島海風&マリンサービス」でこんな感じの所です。
民宿とシュノーケリングツアーなどを一緒にやっています。
扇風機の部屋でしたが気持ちよく寝ることが出来ました。
オーナーも穏やかなご夫婦でのんびり出来ました。
有り難うございました。




<続く>
  


Posted by 夏が好き at 15:35Comments(2)

2014年08月07日

2014年沖縄の旅(鳩間島その3)No.3

この鳩間島は小さな島ですが分かり易いようにこの島の地図に場所名を示しますね。
地図はGoogle地図を使用させて頂きます。
参考にして下さい。


「夫婦岩」からすぐの所にある「屋良浜」にやってきました。
ここは昨日夕日を見に来たところです。
砂浜が広い海岸です。
水も透き通っていて綺麗ですね。




いよいよ「いとま浜ターミナル」に近づいてきました。
途中から見ると防波堤が見えてきました。


それでは防波堤に行ってみましょう。
この島の海の色は全体的にとても綺麗ですが、この周辺が一番色が綺麗かもしれません。





左の方に「いとま浜ターミナル」が見えます。


防波堤の真ん中から陸側の鳩間島方向を見るとこんな感じです。


反対に海側を見るとこんな感じで正面に西表島が見えます。


そろそろ11時なので民宿に戻って昼食を食べてシュノーケリングに出かけます。
今回「バラス島」という小さな小さな無人島に上陸します。
このバラス島は西表島の上原港沖にあるサンゴのかけらでできた島です。
民宿のこんなグラスボートで出かけました。



周囲はこんな感じです。
サンゴのかけらしかありません。
歩くとジャリジャリと音がします。
水に入ってみましたがサンゴはあまりありませんでした。



夜、夕食が終わって9時半頃星を見に港まで行きましたが時間的に早く、お月さんが輝いてあまり星が見えませんでした。


今日は疲れたし、これで寝ましょう。
お休みなさい。  


Posted by 夏が好き at 09:48Comments(5)