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2014年08月19日
2014年沖縄の旅(石垣島 その3)No.10
今回の説明順です。
次は石垣小学校前の(6)「宮鳥御嶽」に行きます。
ここは石垣村の起源とされており、ここから登野城・大川・新川の各村に分村されたという、四箇字創建の神話を伝える御嶽だそうです。
かつて「宮鳥御嶽」の敷地は、現在の石垣小学校の全敷地を含む広大な森でしたが、明治時代に校舎建築のため現在の規模になったそうです。
この横には幼稚園もあり、境内や拝殿の前に車が沢山停められていました。
「宮鳥御嶽」イビ門
イビ門内部に入るのは神様に失礼になるので外から望遠で写しました。
ここにある説明書にはこう書かれています。
宮鳥御嶽(みやとりおん)
石垣市指定文化財(有形民俗文化財)
平成8年(1996)11月12日指定
この御嶽は、文献上は最初に「八重山嶋由来記(やえやまじまゆらいき)」(1705年)に記載されており、「琉球國由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)」
(1713年)には「宮屋鳥御嶽」という表記もある。
方言では「メートゥルオン」などと呼ばれている。 神名は「ヲレハナ」、御イベ名は「豊見タトライ」とある。
上の二つの由来記によれば、「石城山(いしすくやま)に住んでいたナアタハツ、平川(ひさがー)カワラ、マタネマシズの三兄弟妹がここを御嶽
として拝み始めると作物が豊かに実るようになった。
すると、人々は彼らを慕い、周りに集り住むようになった。そして、人々が増え、石垣・登野城両村へと発展していった。」と伝えられている。
このように石垣四カ村発祥の伝承をもつ御嶽であり、字石垣の豊年祭をはじめとする年中行事の舞台となる御嶽であることなどから石垣市の重要な
文化遺産になっている。
境内全体の構成は、鳥居、拝殿、イビ手前の木造の門、石造のイビ門、イビ内の祠(ほこら)が南北の軸線上に配置されている。
拝殿の敷地には砂が敷かれ、段差のある三つの領域に区分されている。
拝殿(大正12年改築)は、桁行(けたゆき)約6.73m、梁間(はりま)約5.82mの木造入母屋赤瓦葺である。 拝殿の背後の敷地はさらに
約70cm高くなっており、拝殿後方両脇と中央部後方に石段が設けられている。
その奥にはイビ垣を囲む栗石積みの垣があり、その中央に木造切妻造赤瓦葺門(薬医門型)がある。
イビ垣内部には、正面と左右に門を開いた石垣で囲われた領域があり、正面の門には琉球石灰岩の大きな一枚岩がのせられている。
御嶽全体を包み込むようにそびえ立つ樹木のなかに、県指定の天然記念物リュウウキュウチシャノキも自生している。
なお、この地域を無断で現状変更することは、石垣市文化財保護条例で禁止されている。
平成14年(2002)3月 石垣市教育委員会
次は(7)「ソーソーマカー」という井戸です。
宮鳥御嶽の神に捧げる水を汲んだ井戸で、「ソーソーマカー」とは清水の湧く井戸という意味のようです。
昼は人が、夜は神が、つまり神人の協力によって掘られたと伝えられています。
別名を「フタナカカー」と言うようです。
住宅と住宅の間にあり周囲の数人に聞いてもこの井戸が)「ソーソーマカー」なのかどうか分からないと言われたほど有名ではないようですね。
ソーソーマカーから裏道を通って行くと左側に(8)「長田大翁主霊」があります。
ここには八重山の群雄割拠時代の英雄の一人、長田大翁主(ナータウフシュ)の霊が祀られています。
長田大翁主は1500年のオヤケアカハチの乱で、琉球王府軍側につきアカハチを討伐し、その功績により古見首里大屋子という要職に
任命されました。
この石碑は長田大翁主を称えるためのもので、彼はこの地で身を隠し神となったと云い伝えられています。
次に(9)宮良殿内に行きます。
途中で使われていない様な古い民家がありその軒下に子猫が居ました。
何も食べ物を持っていなかったのであげることが出来ず・・・かわいそうでした。
近寄ったら怖かったのか軒下の奥の方に潜ってしまいました。
野良猫なんでしょうね。誰かにちゃんと飼ってもらえてると良いけど。
とても気になります。
(9)「宮良殿内 (ミヤラドゥンチ)」に着きました。
ここは入場料が必要です。
石垣市の市街地、大川にある王府時代の建造物、宮良殿内(ミヤラドゥンチ)は、宮良間切の頭職、宮良当演が1819年に建てた私宅です。
沖縄における殿内構造の唯一の遺跡で石灰岩の巨石を配した京都風の枯山水庭園があります。この庭園は、首里の代表的庭師、城間親雲上が
造園したと伝えられています。
しかし首里の貴族屋敷をならった建築といわれ、王府時代の住宅は階級により決められた制度を守る必要があったようで、八重山の頭がこのような
家屋敷を構えるのは違法であるとして5回にわたって首里王府から取り壌しを命じられたそうですが、なかなかそれに従わず、1874年(尚泰27)に
検使の指示によって茅葺きに改められたようですが、1879年の廃藩置県後にはこの様な赤瓦に戻したそうです。
屋内には入れないので縁側に座って庭を見ていたらここの受付の方が暑いでしょうと行って扇風機を出してくれました。
少し疲れもあったので、涼みながらしばらくこの庭園を見てました。
庭の端奥に便所がありました。
昔のトイレはどこも別棟なんですよね。
<続く>
次は石垣小学校前の(6)「宮鳥御嶽」に行きます。
ここは石垣村の起源とされており、ここから登野城・大川・新川の各村に分村されたという、四箇字創建の神話を伝える御嶽だそうです。
かつて「宮鳥御嶽」の敷地は、現在の石垣小学校の全敷地を含む広大な森でしたが、明治時代に校舎建築のため現在の規模になったそうです。
この横には幼稚園もあり、境内や拝殿の前に車が沢山停められていました。
「宮鳥御嶽」イビ門
イビ門内部に入るのは神様に失礼になるので外から望遠で写しました。
ここにある説明書にはこう書かれています。
宮鳥御嶽(みやとりおん)
石垣市指定文化財(有形民俗文化財)
平成8年(1996)11月12日指定
この御嶽は、文献上は最初に「八重山嶋由来記(やえやまじまゆらいき)」(1705年)に記載されており、「琉球國由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)」
(1713年)には「宮屋鳥御嶽」という表記もある。
方言では「メートゥルオン」などと呼ばれている。 神名は「ヲレハナ」、御イベ名は「豊見タトライ」とある。
上の二つの由来記によれば、「石城山(いしすくやま)に住んでいたナアタハツ、平川(ひさがー)カワラ、マタネマシズの三兄弟妹がここを御嶽
として拝み始めると作物が豊かに実るようになった。
すると、人々は彼らを慕い、周りに集り住むようになった。そして、人々が増え、石垣・登野城両村へと発展していった。」と伝えられている。
このように石垣四カ村発祥の伝承をもつ御嶽であり、字石垣の豊年祭をはじめとする年中行事の舞台となる御嶽であることなどから石垣市の重要な
文化遺産になっている。
境内全体の構成は、鳥居、拝殿、イビ手前の木造の門、石造のイビ門、イビ内の祠(ほこら)が南北の軸線上に配置されている。
拝殿の敷地には砂が敷かれ、段差のある三つの領域に区分されている。
拝殿(大正12年改築)は、桁行(けたゆき)約6.73m、梁間(はりま)約5.82mの木造入母屋赤瓦葺である。 拝殿の背後の敷地はさらに
約70cm高くなっており、拝殿後方両脇と中央部後方に石段が設けられている。
その奥にはイビ垣を囲む栗石積みの垣があり、その中央に木造切妻造赤瓦葺門(薬医門型)がある。
イビ垣内部には、正面と左右に門を開いた石垣で囲われた領域があり、正面の門には琉球石灰岩の大きな一枚岩がのせられている。
御嶽全体を包み込むようにそびえ立つ樹木のなかに、県指定の天然記念物リュウウキュウチシャノキも自生している。
なお、この地域を無断で現状変更することは、石垣市文化財保護条例で禁止されている。
平成14年(2002)3月 石垣市教育委員会
次は(7)「ソーソーマカー」という井戸です。
宮鳥御嶽の神に捧げる水を汲んだ井戸で、「ソーソーマカー」とは清水の湧く井戸という意味のようです。
昼は人が、夜は神が、つまり神人の協力によって掘られたと伝えられています。
別名を「フタナカカー」と言うようです。
住宅と住宅の間にあり周囲の数人に聞いてもこの井戸が)「ソーソーマカー」なのかどうか分からないと言われたほど有名ではないようですね。
ソーソーマカーから裏道を通って行くと左側に(8)「長田大翁主霊」があります。
ここには八重山の群雄割拠時代の英雄の一人、長田大翁主(ナータウフシュ)の霊が祀られています。
長田大翁主は1500年のオヤケアカハチの乱で、琉球王府軍側につきアカハチを討伐し、その功績により古見首里大屋子という要職に
任命されました。
この石碑は長田大翁主を称えるためのもので、彼はこの地で身を隠し神となったと云い伝えられています。
次に(9)宮良殿内に行きます。
途中で使われていない様な古い民家がありその軒下に子猫が居ました。
何も食べ物を持っていなかったのであげることが出来ず・・・かわいそうでした。
近寄ったら怖かったのか軒下の奥の方に潜ってしまいました。
野良猫なんでしょうね。誰かにちゃんと飼ってもらえてると良いけど。
とても気になります。
(9)「宮良殿内 (ミヤラドゥンチ)」に着きました。
ここは入場料が必要です。
石垣市の市街地、大川にある王府時代の建造物、宮良殿内(ミヤラドゥンチ)は、宮良間切の頭職、宮良当演が1819年に建てた私宅です。
沖縄における殿内構造の唯一の遺跡で石灰岩の巨石を配した京都風の枯山水庭園があります。この庭園は、首里の代表的庭師、城間親雲上が
造園したと伝えられています。
しかし首里の貴族屋敷をならった建築といわれ、王府時代の住宅は階級により決められた制度を守る必要があったようで、八重山の頭がこのような
家屋敷を構えるのは違法であるとして5回にわたって首里王府から取り壌しを命じられたそうですが、なかなかそれに従わず、1874年(尚泰27)に
検使の指示によって茅葺きに改められたようですが、1879年の廃藩置県後にはこの様な赤瓦に戻したそうです。
屋内には入れないので縁側に座って庭を見ていたらここの受付の方が暑いでしょうと行って扇風機を出してくれました。
少し疲れもあったので、涼みながらしばらくこの庭園を見てました。
庭の端奥に便所がありました。
昔のトイレはどこも別棟なんですよね。
<続く>
Posted by 夏が好き at 20:38│Comments(5)
この記事へのコメント
夏が好きさん こんばんは
今回も懐かしい写真ばかり
「宮鳥御嶽」石垣小学校の前
石垣風に言うと学校の南
40数近い年前 小学校のガキ大将の
決闘の場所でした(笑
僕も子供の頃遊んだ場所 地域をカメラに
納めたいと考えていました
夏が好きさんの写真を参考にさせて戴きます
ありがとうございます
今回も懐かしい写真ばかり
「宮鳥御嶽」石垣小学校の前
石垣風に言うと学校の南
40数近い年前 小学校のガキ大将の
決闘の場所でした(笑
僕も子供の頃遊んだ場所 地域をカメラに
納めたいと考えていました
夏が好きさんの写真を参考にさせて戴きます
ありがとうございます
Posted by namima at 2014年08月19日 21:52
追伸 石垣小学校も母校です
Posted by namima at 2014年08月19日 21:53
市内のこんなに詳しい説明。とても興味深く読んでいます。
宮良殿内以外はほとんど知りませんでした。
こんなにたくさんの史跡があったなんて驚き。
ゆっくり回るもんですね。
namimaさんも懐かしいんだな。
宮良殿内以外はほとんど知りませんでした。
こんなにたくさんの史跡があったなんて驚き。
ゆっくり回るもんですね。
namimaさんも懐かしいんだな。
Posted by おきなべ at 2014年08月19日 22:18
namimaさん
お早う御座います。
この石垣小学校も母校だったんですね。
小さい頃はこの周辺に住んでたんですね。
子供の頃の記憶っていつまでも覚えてるし、その一部でも目にしたり聞いたりすると非常にその時のことが蘇って懐かしくなりますよね。
その頃の環境が今、どのくらい残ってるんでしょう。
東京都違って、風習を大切にする沖縄だから、当時とあまり変わってないでしょうね。
お早う御座います。
この石垣小学校も母校だったんですね。
小さい頃はこの周辺に住んでたんですね。
子供の頃の記憶っていつまでも覚えてるし、その一部でも目にしたり聞いたりすると非常にその時のことが蘇って懐かしくなりますよね。
その頃の環境が今、どのくらい残ってるんでしょう。
東京都違って、風習を大切にする沖縄だから、当時とあまり変わってないでしょうね。
Posted by 夏が好き at 2014年08月20日 07:41
おきなべさん
台風で波照間に行けず、予定の3日間を石垣で待避してましたが、3日目は雨もなく風は少しありましたが、市内を散策することにしました。
市内をゆっくり回ったことが無く、公設市場とか観光案内書に載っている所しか知らなかったので、今回はあまり有名でない場所をインターネットで見つけて回りました。
後で分かりましたが今回、回った場所以外にもかなりの御嶽や井戸があることが分かり、次回チャンス有れば又回ってみたいと思ってます。
namimaさんが住んでた近くをうろうろ回ってたんですね。
その時の時代と交差して同時に存在したら面白かったでしょうね。
台風で波照間に行けず、予定の3日間を石垣で待避してましたが、3日目は雨もなく風は少しありましたが、市内を散策することにしました。
市内をゆっくり回ったことが無く、公設市場とか観光案内書に載っている所しか知らなかったので、今回はあまり有名でない場所をインターネットで見つけて回りました。
後で分かりましたが今回、回った場所以外にもかなりの御嶽や井戸があることが分かり、次回チャンス有れば又回ってみたいと思ってます。
namimaさんが住んでた近くをうろうろ回ってたんですね。
その時の時代と交差して同時に存在したら面白かったでしょうね。
Posted by 夏が好き at 2014年08月20日 07:51